【松下村塾とは?】吉田松陰が教え、数々の偉人を輩出した私塾についてまとめました
日本の歴史を知る上で、「松下村塾(しょうかそんじゅく)」を外すことはできません。
「松下村塾」とは江戸時代も終わり頃の1856年頃に山口県萩市に実在した塾です。
日本史上最も重要な思想家である吉田松陰(よしだしょういん)が教え、本州の端っこの小さな私塾からは数多くの偉人が輩出されました。
高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋…。
近代日本は、松下村塾の塾生たちによって基礎が作られたと言っても過言ではありません。
なぜ、これほど数々の偉人が生まれたのでしょうか?
この記事では、「松下村塾」とはどのような塾なのか? をまとめています。
松下村塾は今でも私たちにたくさんの学びをくれますので、ぜひご一読ください。
目次
吉田松陰とは?
吉田松陰(よしだしょういん、1830.9.20-1859.11.21)は長州藩(現在の山口県)出身の幕末の思想家です。
山鹿流兵学(長州藩公式の兵学)の家の養子に入り、たった9歳で藩校明倫館(めいりんかん)の山鹿流兵学教師となり、11歳の時には藩主の前で講義をし、幼き頃よりその才能が認められます。
20歳頃より知見を広めるために、日本全国を旅し、様々な人々と交流します。
世は幕末で、1853年にはペリーの黒船が来航し、日本の危機を痛感。
先進的な諸外国と渡り歩くためには、海外のことを知らなければいけないと考え、なんと黒船に乗ってアメリカに行こうとします。
結果としては黒船側に断れ、失敗。
重罪人として長州藩に送られ、獄中生活ののち、自宅蟄居の身になります。
自宅から出ることができなくなった吉田松陰のもとには近所の若者が集まり、それは次第に塾となり、松下村塾の教育となります。
高杉晋作や久坂玄瑞などののちに名前を残す人物も育ち、日本の行く末を憂いた吉田松陰は動けない自分の代わりに若者を動かすようになります。
しかしながら、当時の幕府大老であった井伊直弼による安政の大獄により、危険思想の容疑をかけられ、29歳の若さで死刑となります。
松下村塾の学生たちは吉田松陰の意志を受け継ぎ、江戸幕府が倒れた明治維新の中核メンバーとなって、明治政府による近代国家作りに貢献した人物も多くいます。
吉田松陰の思想が明治維新という革命の原動力となりました。
たった30年弱の人生ではありますが、筆まめな吉田松陰は膨大な量の文章を残しており、その生き方や思想は今を生きる私たちにも影響を与え続けています。
松下村塾とはどのような塾?
どうやって塾はできた?
松下村塾は元々は吉田松陰の叔父である玉木文之進(たまきぶんのしん)が始めた塾で、吉田松陰はそれを引き継いだかたちになります。
松陰が獄中生活から自宅に戻った時、玉木文之進は松下村塾を閉鎖していましたが、松陰は家族に講義をするようになり、評判を呼んで親戚から近所の若者へと参加者が次第に多くなり、塾へと発展していきます。
松下村塾という名前は、塾の場所である吉田松陰の家があった松本村(まつもとむら)から、「松本(もと→下)村(の)塾」というだけの意味です。
松下村塾の先生は?
松下村塾の先生は吉田松陰だと思われることが多いですが、実は、吉田松陰自身も先生という立場ではなく、ともに学ぶという姿勢でした。
もちろん吉田松陰は講義を行いますが、獄中仲間であった書の得意な富永有隣(とみながゆうりん)という人物を教師として招いたり、学生でも得意なことを教えあったり、議論をし合うというスタイルでした。
塾の月謝は?
松下村塾の月謝(受講料)は完全無料でした。
それどころか、吉田家から簡単な食事が出ることもあったそうです。
若者たちとの議論が好きだった松陰が、夕飯になったら帰らなければならないのでは議論が中断されてしまうため、食べさせてあげることも度々あったようです。
営業時間は?
24時間開いていました。
吉田松陰は自宅(松下村塾)にいるため、若者は好きな時間に塾に訪れることができ、吉田松陰が講義をしたり、議論をしたりすることができました。
どのくらいの期間、教育をしていた?
吉田松陰が実際に教えていた期間は、わずか「2年10ヶ月」程度です。
塾を立ち上げた松陰の叔父の玉木文之進や、兄の杉梅太郎によって開講されたり、塾生たちの勉強会の場として使われたりしたことはありましたが、吉田松陰が教育していた期間は3年弱しかなかったのです。
何を教えていた?
松陰の得意とした講義としては『孟子(もうし、中国戦国時代の思想家の現行を弟子が編集した書物)』が有名ですが、学生がテキストを選ぶことができる方式だったようで、膨大な数の読書をしている松陰が色々な書物の講義をしたり、学生同士で勉強会を行っていたりしたそうです。
つまり、教えていた内容は多岐にわたり、学問全般であったと言えるかもしれません。
のちに松下村塾からは政治家が多く輩出されたとおり、段々と政治家を生む教育に近くなったようですが、松陰の教育方針としては学生
その人それぞれの長所を伸ばす工夫がされていて、松陰から学生たちへの進む道のアドバイスもそれぞれでした。
松下村塾で学んだ塾生たち
松下村塾からは、明治維新を成し遂げるために力を尽くしたり、明治政府になってから政治家になって活躍したりした人物がたくさんいます。
代表的人物を紹介します。
高杉 晋作(たかすぎしんさく)
奇兵隊の創設者として有名で、佐幕派(幕府の味方をする)に傾いていた長州藩を倒幕派に向ける藩内革命を起こし、長州藩と薩摩藩が共同で成し遂げた明治維新という革命への方向を決定づけた人物です。
自身は持病の肺炎のために若いうちに病死してしまいますが、高杉晋作がいなければ、明治維新は成し遂げられなかったかもしれません。
吉田松陰が生み出した革命の思想を受け継ぎ、行動で世の中を変えた偉人です。
久坂 玄瑞(くさかげんずい)
吉田松陰が「天下の英才」と褒め、高杉晋作とともに「松下村塾の双璧」と呼ばれた人物。
松陰が自らの妹を嫁がせるほど大事にし、後継者のように育て、久坂玄瑞自身も松陰亡き後は長州藩の若者のリーダーとして奔走しましたが、
長州藩によるクーデターである禁門の変にて自刃しました。
1862年に長州萩に訪れた坂本龍馬は久坂玄瑞と会い、玄瑞の言葉がきっかけで脱藩したと伝わっています。
伊藤 博文(いとうひろぶみ)
初代内閣総理大臣。
高杉晋作の弟分のような存在となり、功山寺挙兵時には共に立ち上がって革命を成し遂げます。
明治維新後は政治家となり、内閣総理大臣を4度務めました。
大日本帝国憲法の起草者となり、日本の近代立憲主義社会の基礎を築きました。
山県 有朋 (やまがたありとも)
政治家・軍人であり、明治政府で内閣総理大臣・元帥陸軍大将を始め、様々な大臣職を歴任しました。
松下村塾在籍期間は短かったですが、吉田松陰からは大きな影響を受けたと語っていました。
高杉晋作が作った奇兵隊に所属し、副官に当たる軍艦となり、功山寺挙兵時には実質奇兵隊を掌握し、高杉を支援しました。
品川 弥二郎(しながわやじろう)
明治政府では政治家の要職を歴任。
吉田松陰から可愛がられ、最後まで忠実な弟子であり続け、松陰没後は久坂玄瑞と親しくし、高杉晋作らの尊王攘夷運動にも参加。
軍事に才能があり、戊辰戦争でも活躍しました。
山田 顕義(やまだあきよし)
14歳の若さで松下村塾に入塾し、松陰没後は久坂らの尊王攘夷運動に参加、禁門の変に始まる数次の戦争に参加し、戊辰戦争でも活躍。
明治政府では司法大臣などを務め、また皇典研究所所長としてのちの国学院大学や日本大学の創設にも関わりました。
松下村塾の場所
松下村塾は現存している?
松下村塾は現在でも山口県萩市に現存しています。
松下村塾がある場所は現在、「松陰神社」として吉田松陰が祀られています。
2015年には「明治日本の産業革命遺産」の一つとして世界遺産に登録されました。
住所:山口県萩市椿東1537
松下村塾のレプリカがある
松下村塾のレプリカは、実は日本全国にたくさん存在します。
さらに、松陰神社は東京都世田谷区にもあり、ここにも松下村塾のレプリカがあります。
この場所はなんと、吉田松陰のご遺体が埋められたお墓があるのです。
当時の世田谷村には長州藩主毛利家の別邸があり、罪人の墓である小塚原回向院(こづかっぱらえこういん)に埋められていた松陰のご遺体を高杉晋作らが掘り起こし、世田谷村の敷地内に改葬したそうです。
松陰先生のお墓がある特別な場所が都内にありますので、ぜひ行ってみてください。
住所:東京都世田谷区若林4−35−1
松下村塾はなぜ多くの偉人を輩出したのか?
松下村塾からはなぜ、明治維新を成し遂げたり、日本を作っていった多くの政治家が生まれたりしたのでしょうか。
松下村塾は長州藩の一私塾に過ぎなかった
松下村塾の存在した時代にはたくさんの学校がありました。
藩の公式の学校である藩校があったり、寺子屋は現代のコンビニの数ほどもあったし、私塾も多くありました。
当時の私塾の中では緒方洪庵(おがたこうあん)の開いた大坂の「適塾(てきじゅく)」が有名で、福沢諭吉や大村益次郎などの偉人が学んでいました。
しかしながら、適塾は全国から秀才を集めて教えたエリート校であったのに対して、松下村塾が特殊なのは、近所の若者が集まって学んだ本州の端っこの一私塾でしかなかったのです。
そこから数多の偉人が生まれたことはちょっと普通ではありません。
松下村塾自体が特別扱いされた
松下村塾出身者から多くの政治家が誕生した背景としては、塾出身者が結託して一つの派閥を作っていたことも大きかったと思います。
吉田松陰自体が神格化されたこともあって、松下村塾出身者というだけで政治的に相当な地位に就くことができたという理由もあるでしょう。
塾の教えの影響
塾出身者が特別な地位を占めることができたとはいっても、政治家だけでも総理大臣2人と閣僚経験者を4人出したというのはあまりにも多いのではないでしょうか。
それも、高杉晋作や久坂玄瑞、吉田稔麿や入江九一などの、松下村塾で実力者と評価されてきた人々はほとんど明治維新を迎える前に命を落としてしまったにも関わらずです。
松下村塾の塾生総数はわずか92名程度なのに、これだけの人物が出ています。
塾での実際の教えは今となっては謎な部分が多いですが、興味深いことは、政治家や戦争で散っていった者は多くても学者などになった人はほとんどいないことです。
吉田松陰は、「学者になるな」ということと、「実行する」ということを信条にしていたと言われています。
世の中を変えようと思って戦いで散っていった者はもちろん、政治家も世を変えようとする人達ですから、そんな松陰の考え方が教えとして塾生たちの中に残り、偉人と言われる人達が多く生まれたのではないでしょうか。
吉田松陰という人物の魅力
松下村塾は、本州端っこにある小さな屋敷で、罪人として自宅蟄居になっていた一人の志士が講義し、その志士を慕って若者が集まってできた塾です。
そのため、江戸や大坂の有名な塾と違って、テキストも教えるカリキュラムも整っているわけではありません。
ましてや松陰が教えていたのはたった3年弱だったのですから、他の有名塾と較べて教育内容として立派なものができたわけではないでしょう。
つまり、塾での講義内容が素晴らしかったというよりは、塾の主催者であった吉田松陰の魅力が、若者たちを変えたのではないでしょうか。
吉田松陰の思想や文章は多く残っているので、今の私たちでも読むことができ、そこには松陰の魅力の結晶が詰まっています。
偉大な人物の人生を学ぶことの大切さを教えられますね。
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